すかぢ式 シナリオライター脱創作論 【第1回】
誰かに教わったとしても、たぶんあなたはシナリオライターにはなれないでしょう。
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結論から申します。
物語を創作する人間を育てる事は不可能だと思っております。
何故ならば新しい物語を創作するとは、あなただけの新しい方法論を生み出す事に他ならないからです。故に、本屋に並ぶ漫画家のなり方や小説家のなり方やシナリオライターのなり方などを読んでも、十中八九あなたが憧れる創作者にはなれないでしょう。
世に溢れる創作論は、天才が気まぐれで書いたものか、金儲けのために読み手をおだててその気にさせるためか、自分の自尊心を満たすために技術を後世に残したいというよこしまな想いがあるかのいずれかでしょう。
そんな身も蓋もない不毛な事を言うためにお前はこの様な連載を引き受けたのかと怒られそうではありますが、さすがのボクとてそれほど暇ではありません。
創作を教える事が不可能であると明確にするという事で、逆説的に創作者になるための指針を示す事が出来るのではないかと考えているからです。
第一回目の題名からしてあなたの夢を打ち砕く様な事を書いていますが、この連載は別段あなたの夢を打ち砕く事が目的ではなく一人でも多くの人が数十年後まで長く創作者として第一線で活躍してほしいという想いから書かれています。
誰でもなれる夢ならば憧れません。誰でもではなく「あなた」にしか出来ない夢だからこそ、多くの人が憧れるのです。
誰でもなれるかの様な錯覚を抱かせる様なあらゆるクリエイター教本などはいますぐ記憶から消し去り、あなたしか出来ない、あなただからこそ出来る、新しい物語を紡いでください。
§なぜシナリオライターは育てられないか
ボクはケロQ枕というブランドを運営しております。その前半の歴史において原画家の存在が非常に際立っております。
ケロQ枕からデビューした原画家は十人以上、その後に彼ら彼女らは必ずコミックマーケットで壁サークルになり、そのほとんどがシャッターサークルになっています。いわゆる最大手サークルというやつです。
この数は他の美少女ゲームブランドと比較しても突出して多いと思われます。
翻って、シナリオライターに関しては、メインライターになった人間はボク以外では一名だけ、その一名とて、デビュー作が代表作であり、育てたというよりは本人の才能でなんとか10年ほど創作を続けていた形でした。
原画家に関してもシナリオライターに関しても、指導やプロデュースをしていたのはSCA自であるボク本人です。同一人物が教えても、この二つにはこれほどの差が出ているのです。
では、なぜシナリオライターは育てられないのか?
極端な答えを言ってしまえば、シナリオは差異の創作であり、イラストは反復の創作であるからです。
イラストは、描くたびに違う絵柄の作品が出てきてしまっては絵師としての同一性が保てません。さらにその人らしさというオリジナリティがなければまたユーザーに認知されません。描くたびにバラバラの絵柄でどこかで見た事がある様な綺麗なイラストばかりというのでは生成AIイラストと変わりません。
逆にシナリオライターは同じものを書くわけにはいきません。もちろんその作家らしい風味や展開などはあるにしても、アイディアの初期段階で自分の過去作品と同じではいけません。アイディアはいつでも新しいものでなければ作家として先細りしてしまいます。
絵師がスランプになったという場合は、絵柄が少し変になるレベルですが、物語創作者のスランプの場合は、物語として成立していない素人同然のものが生まれてしまう場合が多いです。これはその二つが差異性と反復性という両極端な性質に偏っているからです。(※1)
さらに言えば、イラストに関しては技術のウェイトがかなりの部分を占めており、シナリオに関しては非技術的なものがかなりのウェイトを占めています。
技術は反復性によって獲得が期待出来ます。つまり練習を積めば技術は基本的には向上する傾向があります。
創作教本の類いが危険なのは、物語創作が極めて非技術的なものであるにもかかわらず、それを技術的なものの様に錯覚させ、技術習得可能な様に見せかける事です。
また、教本の中には文章形式などを集中講義する事で、文章力の向上をあたかも創作論の様に錯覚させる様なものもあります。
極論、文章がどれほど酷かろうが、面白い作品は売れます。多くの酷い文章の原作がメディアミックスで大ヒットしています。中には、大ヒットした作品のネット原作を読んで、どういう経緯でメディアミックスまでもっていったのか想像出来ない様な読めない様な文章の作品もあります。
文章力によって良い作品が生まれるわけではありません。あくまでも文章力は装飾品ぐらいの意味合いしかありません。
そもそもなのですが、もし仮に名作を作る技術があるとしたら、どの作者もアイディアが枯れたりしませんし、筆を折ったりしません。
創作論を技術論で語っても、根本的に何も解決しません。
§なぜ創作論が有害たり得るか
数多く存在する創作論、それらは時に有益であるどころか有害になり得ます。特にX(旧名Twitter)などで流れてくる創作論には有害なものを多く見かけます。
なぜ創作論は有害たり得るか、答えは一つしかありません。
多くの創作論においては「~でなければならない」「~はしてはならない」という断定的意見がなんの戦略性も考えられずに語られるからです。
まず、前提としてあらゆる表現に関して禁止事項は存在しません。ただ、表現媒体によってそれぞれ有効な戦略がそれぞれの時代に存在するだけです。
特に商業において、「~でなければならない」や「~してはならない」を決めるのはユーザーの総意としての〈市場〉でしかありません。断じて作り手側ではありません。
ですが、多くの「創作論」は作り手側が思う「~でなければならない」なのです。
さらに事態を悪くするかの様に、創作論を語る作家の多くが、なにかしらの理想を持っている事が多く、その様な意識が自身の独断論的な発言の危うさを見えなくします。
彼らの多くが自分の価値観ですべての物語の生成過程を分かると思い込んでいます。
「~でなければならない」論のもっとも分かりやすい例では文章技法的なものがあります。
美少女ゲームにおいて技術的なもので例をあげましょう。
〈シナリオ指南書の例〉
「……」表現は三点リーダーを使うのが正しく、さらに「…」の様に一つではなく「……」という様に二つ連続で使うのが正しい。「・・・」の様な中黒点は誤用であり使うべきではない。
文章表現上は説明は正しいと思われがちです。ですがこの制約を守ることで何かメリットがあるのでしょうか? 守らないデメリットはなんでしょうか?
このルールが現実にどれほど有効であるかを考えてみましょう。
〈三点リーダーと中黒点の考察〉
実際、ゲームをスクリプトとして動かすと表示する文字幅の関係で「……」と書いたものが「… …」の様に見えてしまう場合があり、見た目的に「・・・」の方が良い場合があります。
さらに元々三点リーダーを二つ使うというルールが出来た理由を知ると果たしてこのルールを守るべきかどうかも疑問です。大昔の手書きの原稿時代、縦書きで書くと「ミ」と「…」が混同されることが多かったので、その様な間違いが生じない様に「……」という形で使われたという経緯があります。であるならば現在は「…」は必ずしも二個セットでなければならないわけでもありません。
むしろテキストのテンポを考慮して数などは使い分けた方が表現の幅が広がります。
①三点リーダーを正しく使った例
「おまえが……俺を……殺したヤツだったのか…………」
②三点リーダーの数を変えた例
「おまえが……俺を…殺したヤツだったのか………」
③中黒点で表現した例
「おまえが・・俺を・・・殺したヤツだったのか・・・・」
ゲームのテキスト表示の場合。
正しい表記である。三点リーダーを二つはプログラムエンジンの関係で以下の様な表記に見える事があります。
「おまえが… …俺を… …殺したヤツだったのか… … … …」
文字幅に関しては、テキストウインドウのデザインや文字表示の可読性すべてを考えて決める事ですので、シナリオライターがいくら「正しく表示させろ」と言ったところで、その権限はありません。
テキスト表示でどの様に見えるかを判断するのは、シナリオライターではなくその会社で権限を持つ人です。
さらに言えば、その表現の是非を決めるのはユーザーの総意、つまり市場です。決して書き手の内部のルールなど普通の人達にとってはどうでもいい事なのです。
実際ゲーム以外でもYouTube動画などのテキスト表示では「・・・」の方が多く使われています。デジタル作品においては可読性が高いのでしょう。
極論、表現としてならば。
「おまえが、、、俺を、、殺したヤツだったのか・・・・」
でも
「おまえが、、、俺を、、殺したヤツだったのか。。。」
極論でも
「おまえが。。俺を、、殺したヤツだったの\______か」
表現として読み手に違和感がなければシナリオライターが他人の使用方法まで禁止するべきではないでしょう。
その善し悪しを決めるのはユーザーの総意である市場なのです。
そしてこの総意としての市場は時代によって、その価値観が変わります。
この様な話をすると次の様な反論を受けます。
「出版社の新人賞に応募する場合、基本的な文章表現が守られないと、下読みのバイトによって一次選考を落とされてしまう。故に最低限の文章法は守るべきである」
たしかに、デビューする手段が新人賞のみであるのならば、全く反論いたしません。なるべく出版社の意向にそう方が合理的でしょう。
ですが、そもそも00年代初頭の美少女ゲームにおいて有名シナリオライターの多くが、小説新人賞に落ちており、出版社の様な正規の門をくぐる事が出来なかったのではないでしょうか? その様な才能が新興産業であった美少女ゲーム業界に流入したからこそ、名だたる名作が生み出されたのではないでしょうか?
そんなエロゲ業界ですら巨大化していくと、シナリオライターの選考で弾かれる人間が増え始めて、次にプロの選考者が存在しない「なろう系」が隆盛を極めた様に見受けられます。
実際、今の時代ならば新人賞よりもなろうやカクヨムなどのサイトで読者の反応を見てスカウトした方が出版社としては遙かにリスクが低いのです。
そんな中で、多くの読者ではなく、編集部の下読みバイトに読ませるための技術を高める価値はいかほどでしょうか?
§我々が模索するべき脱創作論とは
もしあなたが創作に関わろうとするならば、妥協せずに自分が心から面白いと思うものを書くことをお薦めします。
ボクが思うに、我々が創作において面白さを追求すべき努力とは自分が面白いと思えるものを一つでも多く増やす事ではないでしょうか?
自分が面白くないものは、誰が読んでも面白くなどありません。こんな当たり前の事を我々はすぐに忘れます。
たとえば、プロになるとクライアント(ゲーム会社や出版社)から「ヒット作である○○(具体的な作品名)みたいな話を書いてください」と言われる事もあります。そしてあなたはこの○○という作品が全然面白くないと感じているとしましょう。その時でもボクは、面白くない○○を何度も読み返して「なぜこれがヒットしているのか?」「なぜ自分はこれが嫌いなのか?」を問い続ける必要があると思います。
それでも最後までその作品の面白さが分からない様でしたら(それがデビューのチャンスだとしても)仕事を断る気概をもっていてほしいぐらいです(※2)。
なぜならば、安易な選択は往々にして多くの人を不幸にするからです。
面白さというものは、まず感覚的に分かる事が大前提で、その感覚から精密に分析するものです。
逆ではありません。
感覚的に分からないものを分かったつもりで分析するとほぼ確実に致命的な読み違えを生じさせます。
感覚で分からないものを言語化する時に往々にして、自分で見えている部分だけを過大評価しがちです。見えない部分など想像もせずに、安易な解釈をしてすべて分かった気になります。
これはボク自身何度も陥った事ですし、25年の業界歴で何度も何度もあらゆる人々が失敗してきました。
この「見えている部分だけを過大評価してしまう」現象はかなり根深い問題で、下手をすると、自分で面白いと思ったものですら、厳しい分析力を持たなくては「見えていない売れた要因」を見落として読み違える可能性があります。
創作に対して真剣に向き合った人間ならば必ず「面白いってなんだ?」という問いを発して、発狂しそうになります。
それぐらい「面白い」が「分かる」事は難しいのです。
創作とはつまるところは「面白さ」を物語としてどの様に結晶化するかの作業であり、究極的には面白さの分析およびその応用する技法の研鑽こそが創作論のキモになるのではないでしょうか。
創作論の不可能性というのは、この面白さそのものが時代性と強く結び付いており、恒久的で普遍的ではない事に起因します。
有効な創作手法はその時代や媒体によって大きく変わるのです。
たとえば、歴史的な名著と言われるものを我々が読む時にそう易々と「面白い」などと思わせてくれないでしょう。世界的なエンタメ小説である『源氏物語』も『リア王』も相応の歴史的な教養を必要とさせます。
もっと言えば、極論、すべての人間にとって「面白い」作品など存在しません。
誰かにとって面白い物語は、誰かにとってつまらない物語でもあるのです。
これも普遍的な創作論など存在しない理由と言えるでしょう。
たまにこの様な発言をするプロがいます。
「自分が面白いではなく、エンタテインメントとして面白いものでなければならない」
これはもっともらしい言葉に聞こえますが、不毛な循環論法です。
まず、この発言者は自分が「エンタテインメントの本質」を理解していると考えています。
ですが先ほどから説明している通り「面白さ」を捉える事はかなり難しいのです。
そもそも、出資者、ゲーム会社や出版社やアニメ会社など商売としてエンタメ業をしている会社は売れる作品を世に出したいと思っています。
つまり会社にとって「エンタテインメントとして面白い」こそが究極的な商業的な問いであり答えなのです。
「エンタテインメント的な作品を作るべきである」というのは「みんなが面白いと思うものを作るべきである」と同じで、それはつまり「売れる作品を作るべきである」という身も蓋もない事を言っているに過ぎません。
それが出来るのなら苦労しません。
これは別段、この文章を読むあなたに向けられた話ではなく、他ならぬこれを書いているボク自身にも言える事なのです。
「面白さ」に対して安易な答えで満足して、それで分かった気になる。誰だって陥る状況です。
さらに突き詰めると、創作論の不毛さというのは、実はそれを書いている作家自身が、いつでも「創作のはじまりの地点」に立たなければならないのに、あたかも自分はプロだから他のアマチュア連中とは違った地点に立っているかの様に錯覚していることに起因します。
手前味噌で申し訳ないのですが、ボクは『サクラノ刻』の中でこの様な記述をしています。
「人がいくら努力し、技術を磨こうが、『 美 』という財宝には手が届かない」
「届かないのは才能の差でも、贄のごとき血の努力でもない」
「芸術とは、芸術が自らの傍らに寄り添った瞬間――
――その瞬間、はじめて自らの血が作り上げるものだと思われます」
「その芸術が、その芸術家の傍らにずっとありつづける事はない」
カリスを「面白い作品」と読み替えてください。
つまり、どんな著名な作家だろうが、「面白い作品」がいつ誰に舞い降りるかなど分かったものではないのです。
ただ、その準備は出来るのかもしれません。「面白い作品」が舞い降りたとしてもそれを形にしなければなりません。形にするには技術が伴います。
つまり、創作論とは二つの構成から成り立つと思われるのです。
まず、「面白い作品」がどの様に舞い降りるのか。
次に、「面白い作品」をどの様に物語として形にするのか。
この二つを得るには、才能だけでも足りず、技術だけでも届かず、そしてその両方を持っていたとしても手にできるとは限りません。
昨日まで一人の天才に溢れるほどのアイディアを与えていた創作の女神も、突然彼になにも与えなくなるかもしれません。
溢れるほど沸き上がるアイディアが、ある日突然干上がり砂漠の様な大地になるかもしれません。
逆に、これまで掘れども掘れども何も出てこない不毛の大地だと思われた自分の才能から、突如とめどなく素晴らしいアイディアが湧き上がるかもしれません。
誰に読ませても微妙な反応な作品でしかなかったあなたの作品達が、突然、読む者を魅了する財宝に変わるかもしれません。
創作はある地点から、信仰に近いものになるとボクは思っています。
物語の力を信じる事。
その信仰心を打ち壊す様な数々の試練に対して諦めずに努力し続ける事。
誰かにバカにされたとしても、自分だけは、自分の才能を信じ続ける事、にもかかわらず自分に見えている事態に懐疑的である事。
これらは苦悩の連続でしかありませんが、それでも良き作品を手がける事が出来たとするならば、その労力は救われるでしょう。
でもこれは当たり前の事なのかもしれません。
単なる自分の空想を、誰かがお金を払って読んでくれる。そして面白いと言ってくれる。これはかなり奇跡的な事なのです。
だって、我々の空想がその人の心を動かしたわけですから。
そんな奇跡のために、我々は物語を描いているのです。
§最後に
今まで長い間に何人もの若者に「シナリオの書き方を教えてほしい」と言われてきましたが、いつでもお茶を濁してきました。
大昔、Twitter(現X)で以下の様な発言をして炎上したシナリオライターがいました。
Q. シナリオはどうやって書けばいいのですか?
A. ヒロイン「うんこ爆弾をくらえ!」
ドカーン!!
主人公「ぐわぁーー!」
↑これが書ければ問題ありません。
実はさほどこの答えが間違いだとボクは思いません。
シナリオを書く事など、母国語の執筆が出来る人ならば誰でも出来ます。それは事実です。
ただ、誰もこんな答えなど望んでませんし、ましてやボクにこの様な事を教えてほしいわけではありません。
みんなが知りたいのは「良きシナリオライターになるための方法」であるのだと思います。
だからこそ、ケロQ枕の門を叩く事で多くの若者はボクからなにか得られると思ったのでしょう。
それに対してボクは終ぞなにも与える事も示す事も出来ませんでした。
そういった意味では、その事への贖罪という意味もこの連載にはあったりします。
この連載があなたにとって有益なるものになるかどうかは分かりませんが、それでもできる限り「創作」という思考形式を指し示すことが出来たらと考えています。
不毛であると思われる創作論にあえてボクは挑みたいと思います。
※1 もちろん、シナリオは差異性だけ、絵師は反復性のみというわけではありません。同じく創作であれば、それぞれ差異性も反復性もあります。ただその割合が極端に違うのです。この認識は、教える側にとっても、教わる側にとっても非常に重要ですが、非常に軽視される傾向があります。
※2 これは一個人だけの問題でなく業界そのものの大問題でもあります。ヒットしている作品の本質が分からないのに表層的にコピーする事は、だいたいにおいて市場そのものを地盤沈下させる原因となります。これまで何度となく「これがヒットしているから真似すればいいでしょ」的な企画を見てきましたし、自分でも関わってきましたが、その様な甘い考えは、その業界そのものを滅ぼします。勘違いされては困るのは、二匹目のドジョウを狙うのが悪い事ではありません。心からヒット作の真似みたいな作品がやりたいのであればいいのです。問題は面白さの本質が掴めてないヒット作を安易に真似、その様な作品が粗製乱造されることは、多くの業界人が考えるよりも甚大な被害を及ぼすという事です。
<著者プロフィール>
SCA自(すかぢ)
ケロQ/枕代表兼シナリオライター





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